- 「パンがなければ・・・」は別人の言葉
- ルイ14世が世紀の大愚策を実行した訳
- 処刑前日・・アントワネットの遺書
- かなり臭かったベルサイユの美しい庭園
- ベルサイユ宮殿・・ベッドの数は400!
- 尊厳を奪われたアントワネットの遺体
- アントワネットには子どもが4人いた
- 英雄ナポレオン・・女の見る目なし
- 「略奪婚」の末に破局したナポレオンとジョゼフィーヌ
- 不吉な未来を予言されていたルイ14世
- ナポレオンの自殺未遂事件の全真相
- ナポレオンの他人に言えない悩み
- ルイ14世が与えた恐るべき影響力
- ナポレオン流刑後の真相
- 女性の拷問服・・ウエストは33センチ
- ギロチン処刑直後、意識はあるのか?
- 恐るべし!ルイ14世の歯の治療
- フェルゼン伯虐殺事件
- ロベスピエール・血の粛清
- ギロチン以前の拷問
みんなが知らないフランス史内の最新情報
ルソーの自叙伝「告白」の中に登場する、「さる高貴な王女」の言葉が出典となっている。その高貴な王女というのは、ルイ16世の叔母である、ビクトワール王女だと言われているのである。
飢饉の際に、彼女が言った言葉をルソーが自著の中で紹介し、それがいつの間にかアントワネットの言葉として広まったというわけなのである。
それにしても、この言葉を発したビクトワール王女・・・イヤミで言ったのか、何もわからず言ったのか・・・。こんな言葉を言われた民衆からしたら、当然殺したい程の憤怒だったのであろう。
この、‘ナントの勅令‘は、信教の自由を約束した偉大な法律である。これを廃止してプロテスタントを異端として弾圧した為に、約20万人の商工業者が難を逃れる為に国外へ移住したのだ。これにより、外貨が流出して経済は大打撃を被ったというわけである。
これにより、フランス経済は2世紀遅れたとさえ言われている。
そして、この愚策の一因は、晩年の妻であるマントノン夫人にあったのだ・・・。
‘太陽王‘と呼ばれて威厳を誇り、女性を意のままにしたルイ14世であるが、晩年にはマントノン夫人を一途に愛した。
元々は、寵姫モンテスパン夫人の教育係りを勤めており、献身的で物静か、教養があり、慎み深い女性だったという。
華やかな女性遍歴を重ねたルイ14世だったが、ゴールは3歳年上の意外と地味な女性だといういわけである。
1683年に、王妃のマリー・テレーズ(アントワネットの娘ではない)が世を去ると、ルイ14世はマントノン夫人と秘密結婚をする。その生活は穏やかなものであり、ルイ14世は彼女への愛を深めていった。
しかし・・・マントノン夫人が敬虔なカトリック信者だったことから、思いがけない事態が発生してしまったのだ。妻の影響を受けたルイ14世は、突如、プロテスタントを弾圧し、改宗を迫ったのである。それがナントの勅令の廃止に繋がったわけなのである。
それにしても、ナントの勅令廃止は、政教が分離されていなかった故の愚策だといえるのかもしれません・・・。
(中略)
妹よ。これが、あなたへの最後の手紙です。私は恥ずべき死刑の判決を受けたのではありません。死刑は、犯罪人にとっての恥ずべきもので、これは、あなたの兄上に会いに行くようにとの判決なのです。
あの方と同じく無実の私は、最後の時が来ても、あの方と同じくしっかりとした態度でいられると思います。良心の咎めがないので、私は平静な気持ちです。かわいそうな子ども達を残していくことだけが心残りです。
私が生きてこられたのは、あの子達と優しく親切なあなたがいらっしゃったからです。友情からとはいえ、私達と一緒にいる為に全てを犠牲にしてくださったあなたを、私はなんという境遇に残していかなければならないのでしょう。
(中略)
私は生まれてから今までに犯した全ての誤ちについて、神に赦しを願います。これは今までにもお祈りしてきましたし、私の最後の願いにもなります。
皆様、特にあなたには、知らず知らずのうちにおかけした辛い思いをお詫びしたいと思います。また私に危害を与えたすべての敵を、赦します。
叔母様、兄弟、姉妹の皆様に最後のお別れを申し上げます。私にも友人がありました。この方々にもうお目にかかれないと思い、その方たちのお気持ちを察すると、それが死に際してもっとも心残りなことです。この方々のことを最後の瞬間まで考えていた、とお知り置き願いたいと思います。
さようなら!やさしい妹。この手紙があなたに届きますように!いつまでも私の事を忘れないでいてくださいね。あなたと、あのかわいそうな子ども達を心から抱擁します。
神よ!この人たちと永遠に別れるのは、まるで胸を引き裂かれるようです。
さようなら!さようなら!もう後は、神に一切をお任せするだけです。
この遺書から感じとれるのは、愛しいフェルゼンに対しての想いです。
勿論、義妹や家族への想いも込められているのでしょうが・・・フェルゼンに堂々と手紙が書けないぶん、この手紙に想いが込められているようにも感じました。
そして、王妃としての誇りと威厳も最後まで褪せることはなかったというのもじんわりと感じました。
しかし・・・トイレがなかったというのは有名な話しである。
実は、全くなかったというわけではないのだが、数が極端に少なく、更に常時故障中というすこぶる不便、そして不衛生な状況だったという。
そこで、紳士淑女の方々は、庭園の茂みの影でこっそり・・・。やんごとなき方々が、無粋な荷物をお持ち帰りになるはずもなく、あちこちに残された大量のそれらが放つ臭気は、相当なものだったらしい。
宮殿近くにあるオランジュリー(オレンジ園)には、かつて2000本近くのオレンジと月桂樹の木があったという。オレンジを始めとする柑橘類には消臭効果があるのはご存知の通り。庭園内に漂う困った臭いを和らげる効果も多少はあったのだろう。しかし、その臭いを和らげる為に立っていたのかは不明である。
パリ市民は、用をたしたそのバケツを、二階の窓から外の通りに向かって捨てていたという話しを聞いた事があります。果たしてそれは、事実なのかはわかりませんが、ベルサイユでもトイレがあまりなかったというくらいなので、市街は実際にそうだったのかもしれません。
実際に、フランスに行った時に地下鉄の、あまりにもの臭気と不衛生さには耐え難いものがありました。そして、街中はペットの糞だらけ。ペットの糞を取る用の車が走ってるくらいなのです。
美しい建物や場所ではあっても、実際の所・・・衛生面ではあまり力を入れていないと思えます。昔も今も。
なんといっても、話題であるベルサイユ宮。次から次にいくつものグループが見学に訪れ、大勢の見物客が興味本位に見つめる中で、国王は洗顔したり、着替えをしていたそうである。国王の、生活そのものが宮殿内のショーと化していたのである。
オッサンの生活姿や着替えがそんなに見たいと思うのかが不思議であるが。
このベルサイユ宮殿は、ルイ13世が造営に着手し、ルイ14世が1661年から約20年の歳月を費やして建てたバロック建築の代表作である。
数百枚の鏡を使った鏡の間、天井いっぱいにフラスコ画が描かれたヘラクレスの間、礼拝堂、各部屋の彫刻や絵画、調度品など見所が多く、目的としては王の生活姿を見る、というよりそれらの物を見る為に、見学者が殺到したのならば無理はない・・・。
中でも目を引いたのは、国王が多くの時間を過ごした寝室だった。何処もかしこも金ピカであり、天蓋付きのベッドがドン!と置かれていた。宮殿の完成時には、国王のベッドの数は400あまりも用意されてたという・・・。
これらのベッドは、現在のものに比べると寸法が短いというのが特徴であり、これは当時の貴族達が小柄だったというわけではなく、不意打ちに備えた工夫だったという。寸法が短い代わりに、ヘッドボードが思い切り高く作られ、王族達はこれによりかかるようにして眠ったのである。宮殿内といえども、油断大敵で、いつ誰が襲ってくるかわからない。敵や暗殺者に備え、王族達は明かりをつけたままこのヘッドボードに背中を預け、護身用の剣を傍らに置いて眠りについたというわけなのである。
実際に、4年前くらいにベルサイユ宮殿へ足を運んだことがあったが、確かに王妃のベッドを見た瞬間、‘こんなに王妃は背が小さかったんだ!?‘と思ってしまった。しかし、こういう事情があったとは・・・・。
1793年1月21日・・革命広場で処刑されたルイ16世の遺体は、広場から数100メートル離れたマドレーヌ寺院でミサを受けた後に埋葬される予定だった。
しかし、処刑に昴揚した群衆は、それすらも許さなかった。葬列は、予定の変更を余儀なくされ、王の遺体は直接寺院近くのマドレーヌ墓地に運びこまれた。そこは、処刑者を埋葬する共同墓地のような区画だった。
一方、アントワネットの遺体も同じようにマドレーヌ墓地に運ばれたが、役人達は・・なんと、遺体を草むらに放置したまま昼食にでかけてしまったのだ。両足の間に首を置かれた王妃の遺体が埋葬されたのは、処刑から約2週間後のことだったという。
1814年の王政復古の後、ルイ16世夫妻を讃える行事が公式に行われるようになった中で、二人の遺体は改葬されることになった。しかし・・・、遺体は投げ込まれるようにして葬られた為、確実な場所が特定できず、当時の墓堀人夫を呼び出してその場所を探したのだという。
掘り出された遺体は、サン・ドニ大聖堂に改葬され、跡地には王弟アルトア伯によって贖罪礼拝堂が建てられた。
1815年のルイ16世の22回目の命日にあたる日に、二人の遺体はマドレーヌ墓地からサン・ドニ大聖堂へと改葬され、アントワネットの魂は、ここにようやく永遠の安息を得たというわけですね。

ルイ・シャルルが誕生した1785年に発覚した首飾り事件で、翌年5月の判決はローアン大司教の無罪は証明したが、王妃にかけられた嫌疑を払拭することはできなかった。その判決から1ヶ月余り後、第二王女のマリー・ソフィは生を受け、そして1歳の誕生日を迎えることなく他界したという。
歴史の濁流に足を取られ始めた悲劇の王妃に、ひと時の慶びと、それを覆い尽くして余りある哀しみを遺して去った夭逝の王女は、ルブラン夫人作の「マリー・アントワネットと子ども達」に描かれた空の揺りかごの中で眠っているといわれている。
この、ルブラン夫人の描いた肖像画のマリー・ソフィについてのエピソードは、管理人の私も知りませんでした。あの、空の揺りかごについての理由を知って・・・せつなくなりました。ちなみに、左上の画像がその問題の肖像画です。
しかし、ナポレオンは、語録の中で彼女のことを次のように語っている。「嘘つきでだらしなかった。だが、なんともいえず好きだった」
なんとも情けないというか、いくら英雄でも・・・。
ジョゼフィーヌは、フランス皇后となり舞い上がってしまった。と、いうわけでお金は使い放題。年間数百着というドレスと100組もの手袋。500足を超えるほどの靴。口紅代だけで、年間250万も使ったのだという。情けない夫のナポレオンは、そんな無邪気な労費癖の妻を可愛いとでも思ったのかもしれない・・。
ナポレオンは、結婚13年目にして彼女と離婚をするが、これは彼女の労費癖にに嫌気がさしたわけではなく、二人の間に子どもができなかった為とされている。ナポレオンが浮気に走ったことや、夫婦関係がぎくしゃくしていたことは事実だが、離婚後も彼女に豪邸を与え、生活を保障した。
離婚後のジョゼフィーヌは、豪邸の一角に薔薇園を作り、世界中から集めた4000種ほどの薔薇に囲まれて、優雅な老後を送っている。
彼女みたいな人生は、さぞかし幸せなのであろう。権力、お金、地位・・自分がそこまで愛していなかったとしても、全てを持った人物に好かれれば正にシンデレラのような夢の人生が待っていることであろう。ジョゼフィーヌのように・・。
「英雄色を好む」の言葉通り、気になる女性がいれば、部下に命じて相手の気持ちを探らせたり、贈り物攻撃をしたりと、あの手この手で急接近を試みたという。そんなナポレオンの女性遍歴の中でも、特筆すべき存在といえば、最初の妻ジョゼフィーヌだろう。
ナポレオンは2度結婚しているが、1度目の結婚は、大出世のきっかけとなったイタリア遠征の直前である。1796年の3月だった。この時、8歳年上の新妻ジョゼフィーヌは再婚で、前夫との間に二人の子どもがいた。
しかし、夫が死に、未亡人となっていたジョゼフィーヌは、総裁バラスの愛人となっていた。
当時のフランスは、革命の最終段階を迎え、バラスを中心に5人の総裁からなる総裁政府が樹立されたばかり。世の中はまだ、混乱していたが、その中でナポレオンの活躍が政府要人の目に止まった。
バラスは、ナポレオンを呼び出して国内軍副司令官に任命。時代は、強力なリーダーを待ち望んでいた。
この昇進を機に、バラス、ジョゼフィーヌ、ナポレオンの接点ができた。
ある時、バラスのサロンでジョゼフィーヌと会ったナポレオンは、たちまち彼女に夢中になってしまった。しかし、バラスとナポレオンの間に火花が散ることはなく、バラスは潔く彼女を譲ることにした。しかも、ナポレオンをイタリア遠征総司令官に抜擢し、昇進という結婚祝までつけたのである。
挙式の二日後、ナポレオンはイタリアへ。遠征先では熱愛が戦うエネルギーになることを証明してみせた。
ところが・・・一方のジョゼフィーヌは、すぐに本性を表す。遠征中、ナポレオンはジョゼフィーヌ宛に熱烈なラブレターを送り続けたのだが、なしのつぶて。数百のラブレターに対し、彼女からのナポレオン宛の手紙はたった一通しか残されていない。しかも、夫の留守中に浮気に走り、浪費も著しかったという。彼女にとって大事なのは、愛よりお金、そして生活の保障だったようだ。妻の浮気に気付いたナポレオンは、今度は自らが浮気に走り、1810年には離婚している。
この頃・・・ナポレオンにとっては最盛期。奔放な年上妻に振り回されながらも急ぎ足で出世し、この時期に頂点を極めたのである。
ルイ15世の、ひいじいちゃんのルイ14世は、ある時当たると評判の一人の占い師を官邸に招き、国の将来を占ってもらった。この頃、フランスは全盛期であり、更なる領土拡大を目指す王にとって、未来の国家はますます繁栄していなければならなかった。しかし・・・占い師が予言したのは、王が思い描く未来とは正反対のものだった。
「やがて、大きな波乱が起こり、御子孫に重大な災難がふりかかるでしょう・・」
不吉な予言・・・。王はすっかり機嫌を損ね、占い師を死刑にしてしまおうと考える。
その後、再び別の占い師を呼ぶ。占い師は処刑になりたくなかった為に、「私が死んだ3日後に王の命はなくなるでしょう」と言ったという。このように言われたら死刑にはできない。占い師も人間だから、とっさに身を守るための知恵を働かせたのであろう。
ルイ14世は、ヨーロッパ一の軍隊を作り、侵略戦争を繰り返したが、次第に劣勢となり、フランスは海外領土の多くを失ってしまう。絶対王政に暗雲がたちこめ、晩年は戦費や宮廷費の使いすぎで国の財政は一気に傾いていった。
これが一因となり、王の70年後でフランス革命が勃発。この革命で、子孫のルイ16世と妻のアントワネットが処刑されたことは、周知の通り。つまり、占い師の予言はズバリ的中したというわけである。
ルイ14世も、予想通りの未来を言われなかったので、怒って占い師を死刑にしてしまいますが・・・彼が、このことを受け止めていたならば、果たしてフランスの未来は変わっていたのでしょうか・・・?
実は、10代の頃から自殺願望が強く、皇帝時代に「もしや自殺未遂?」と思わせるような出来事があったのだ。
権力の頂点に立つ人間は、誰でも孤独でその心中は計り知れないものなのである。
ある夜、側近のコーランクールは、ナポレオンに呼ばれて部屋を訪れた。なんと、苦痛に顔を歪めた皇帝が、2度目の妻であるマリー・ルイーズ宛の手紙を差し出した。そして、「自分はもうすぐ死ぬから」と言い、手紙を妻に渡して欲しいと告げる。実は、この時ナポレオンは強烈な毒薬を口にしていたのだ。
この時、ナポレオンが本当に服毒自殺をしようとしたのか、単にその毒性を試そうとしただけなのかは定かではない。ともかく服用したことは事実であり、ナポレオンは激しい腹痛を起こしてもがき苦しんだ後、激しく嘔吐する。
結局、これによって毒物を速やかに排出することができたのだろう。何とか、死の淵から生還。「死ぬのは決して楽じゃない」と痛感したナポレオンは、今度は何としてでも生きていく覚悟を決めたようである。それほど、死の淵の体験は苦痛だったということであろう。
ロシア遠征の失敗以降、ナポレオンの勢力は衰えを見せ、ついには退位して地中海のエルバ島へ流されてしまう。更に、ワーテルローの戦いで大敗し、今度はセント・ヘレナ島へ流される。しかし、失意の最中でも、再び例の毒薬を口にすることはなかった。
毒薬で命を無くしかけた経験が、逆境で生き抜く力になったのかもしれない。
ナポレオンは、せっかくの皇帝になったというのにどうして自殺?なんて思うかもしれないが・・きっと、彼なりに死にたい事がおきたのであろう。元々コンプレックスの固まりだったわけで、孤独な人間だからこそ他人には言えない事情があったのだと思う。
しかし、彼は未遂事件から一度も死のうとは思わない。本当に弱い人間は、ナポレオンみたいに一度未遂事件をおこして、逆境に立ち向かう力をつけてもいいのではないだろうか。
ナポレオンが生まれ育ったのは、イタリア半島の西に浮かぶコルシカ島。ここは、フランス領だが、元々はジェノバ共和国の領土で、ナポレオンが誕生する直前に、フランス領土になっている。その為に、ナポレオンはフランス語が苦手だったのだ。と、いうよりかイタリア方言であるコルシカ語しか喋れなかったのだ。
「フランス国民」として生を受け、フランスの兵学校で学んだものの、言葉の壁はなかなか超えられない。しかも、元来おとなしく、孤立しやすかったという。育ちのいい仲間達の中で、自分だけがコルシカの田舎貴族出身という思いにさいなまれ、孤独感を味わったのである。
学校を卒業し、軍職についてからも、その孤独感は居座り続けた。
ところが・・・コンプレックスはある時から、揺るぎない自信にすり替わっていく。
彼を変えたのは1789年の19歳の時始まったフランス革命。王家の再興を望む王党派の反乱を鎮圧したのを機に、ナポレオンは出世街道をまっしぐら。イタリア遠征でオーストリア軍を破ると、一躍フランスの英雄となり、1804年には皇帝の地位までのぼりつめた。
全ヨーロッパの制覇を目指す皇帝の姿からは、言葉の壁で悩んでいた少年の面影は消えていたはずだ。
何が言えるかといえば、皆と同じことをして皆と協調しあっていれば、人間関係は安定しますが、一際目立つ人生はおくれないということなのです。
人から笑われようが、人から後ろ指さされようが、友達がいないだろうが、自分のしたいことをし、人とは違うことをすれば、大物にもなるわけです。一歩間違えれば転落の恐れもありますが・・・。
要は、自分を信じることですね!幼い時代は、悩みばかりだったナポレオンも、「余の辞書に不可能の文字はない」と言うようになっています。彼こそ、素晴らしい人生をおくった人物なのではないでしょうか。
自ら建てたベルサイユ宮殿の装飾には黄金の太陽をふんだんに用い、身につける衣装もキラキラで豪華一色。正装姿でポーズをとった有名な肖像画からも、そのことがうかがえる。
とりわけ、ルイ14世をきっかけに流行したのがハイヒールであった。ルイ14世がハイヒールを愛用すると、続いて周辺の貴族達が履き始め、流行は広がりを見せた。この頃、ハイヒールは男達の足元も飾っていたのだ。
もう一つ、ルイ14世はカツラの流行にも一役買っている。王は、金、銀、赤、など毎日のようにカツラの色を変えてはたてがみ風の派手なバリエーションを楽しんだ。その後、カツラは正装として定着し、フランスで大流行したのである。
これほど影響力のあった王様だから、ルイ14世の生活はスーパースターさながら。やることが全て、ショーのようで、朝から早速着せ替えショーが始まった。担当の家臣がゾロゾロと歩みより、王の身の回りの世話をした。どの担当であれ、王のお世話ができるのは大変な名誉。その為に、家臣達は、王に気に入られたくて王好みの豪華な服を身につけたという。
日々の衣装代がかさんでも、決して文句は言えない。「朕は国家なり」と自分で言う王様には誰1人逆らえなかったのである。
→ファッションリーダーアントワネット
しかし、いくら影響力のある人物だったとしても、さすがに贅沢三昧の暮らしをされれば、国民は黙っていられません。まだ、ルイ14世の時代では国民達も動いてはいませんが・・いずれ国民の怒りは爆発することになります。アントワネットだけが悪いのではなく、代々伝わる王家の生活自体が原因なのでしょう。
彼は、1815年の「ワーテルローの戦い」に敗れた後、大西洋の孤島、セントヘレナへ流刑となって、この地で最期を迎える。1821年、5月5日のこどもの日・・52歳だった。
島への到着当時、ナポレオンは46歳。「一日に3時間しか眠らない」と言われた皇帝時代そのままに、体は頑健そのもの。健康状態は、極めて良好だった。退屈しのぎに庭仕事に精を出したり、島のあちこちを愛馬で早駆けしたりもしていたという。愛人までいたらしい。
ところが、そんなナポレオンが、セントヘレナでの生活が2年を過ぎた頃から徐々に体調を崩し始める。まず、歯茎の腫れをしきりに訴えるようになり、偏頭痛に悩まされるようになった。やがて手足の冷え、そして脱毛がひどくなる。ちなみに、脱毛以外は管理人も同じ症状があります。
特に、手足の冷えは辛かったらしい。毎日、風呂に入りたがり、しばしば侍従に、熱いタオルで足をくるませたという。極寒のロシア戦役の時でさえ、寒いなどと一言も言わなかった男がだ。
実は、これらは砒素の慢性中毒に特有の症状なのだ。侍医や、侍従達が詳しく残したナポレオンの健康状態に関する記録にも、確かに砒素中毒の殆ど全ての症状が認められる。
これを、ワインに砒素が盛られていたからではないかと見る人もいる。ナポレオン専用のワイン蔵の男が関わっていた、と。なぜかというと、ナポレオンがセントヘレナで愛人としていた女性とは、そのワイン蔵の男の妻だったからである。
実は、諸説紛々として、その死の真実はよくわかっていない。ただ後年、従者が記念として保管していたナポレオンの遺髪からは、通常の13倍もの砒素が検出されたという、疑いのない事実だけがある。
その原因は、女性の胸から腰を包んでいた、拷問具のように窮屈な下着にあった。いわゆる、コルセットである。なにしろ、初期のコルセットは鋼鉄製。西洋騎士の鎧を、ウエストの部分だけ極端に細くした下着といった感じだった。その後、クジラのヒゲを編みこんだコルセットが登場するが、これがまた恐ろしく窮屈な代物だった。ヒモでぐいぐいと締め上げる仕組みで、女性のウエストを更に細くしたのだ。
そんな、細いウエストの中で、内臓が正常であるわけがない。肉に食い込んだコルセットは、大腸をねじ曲げて便秘にさせ、流産をも引き起こした。あまりに細くなりすぎて、コルセットの支えがないと立っていられないという女性もいたという。
更に究極を目指したのは、16世紀のフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスである。異教徒を虐殺したことで知られる彼女は、宮廷の女官達全員に、ウエスト33センチにするよう命じたのである。33センチといえば、女性の平均的な首まわりと変わらない細さなのである。
日本の平安時代では、美人というと下膨れの顔に、細い目、おちょぼ口だったという事は有名。現代とは正反対である。
だから、どの時代でも美意識というものの違いがわかる。これから100年後の日本なんて、もしかしたら丸い顔で、だんご鼻で小さい目が美人の象徴とも言える時が来ないとも限らないのである。ただ、体型に関して言える事は・・太った女性が美しいという時代がないことである。ただ細いだけも駄目。やはり、出るとこはでて細いとこは細い、曲線美こそが女性の理想のボディなのではないだろうか。
医師のジョゼフ・I・ギヨタンが考案したこの処刑器具は、それまでの道具よりも人道的だと思われた。ギロチンにかけられた死刑囚は、確実に、しかも痛みを感じるよりも早く、一瞬にして死ぬ事ができるというのがその理由だ。
ところが、そのうち妙な噂が流れるようになる。ギロチン刑の直後、切り落とされた首を解剖しようとメスを突き刺したら、痛そうな顔をしただとか、首のない胴体が駆け回ったというのだ。
フランス人の医師ウェルポーも、「人間は、首を切られた直後も生きているのではないか」と考えていた1人だった。
1864年、ウェルポーは喜ぶべきか、悲しむべきか、その真偽を確かめるチャンスに恵まれたのである。知り合いのド・ラ・ポムレー医師がギロチンにかけられることになったのである。そこで、事前に彼とある約束を交わした。その約束とは、ポムレーの首が切り落とされた直後にウェルポーが彼の名前を呼んだら、右目を三回ウィンクするというものだ。さて、結果は残念ながら・・・ポムレーの生首は一度、ウィンクしたというのである。
とはいっても、国王の虫歯を治療したというものではない。ルイ14世の侍医だったドクトル・ダカンが抜歯を進言したからなのである。歯が健康であるうちに、ことごとく抜く事が王の務めだと発言したのである。これは、歯が人間に死をもたらす病の巣だと、ドクトル・ダカンが信じ込んでいただけの話しなのである。
嫌がる王も、最後にはしぶしぶと承知をし、ドクトル・ダカンは見事な手腕を発揮することとなった。まず、健康な歯と一緒に王の下あごを打ち砕き、更に上あごの歯を抜く時には大部分の口蓋(上あご)まで取り除いてしまったのだ。これを、麻酔なしで行ったわけなのだから、拷問である。
さて、手術後一ヶ月の間に、下あごはくっついたが、上あごは、穴のようなくぼみになってしまった。ドクトル・ダカンはその間、太陽王の口蓋のくぼみを殺菌する為に、熱した鉄の棒で14回も焼かねばならなかったそうだ。
そしてその後・・・なんとも情けないことに、太陽王の昼食には10時間以上かけてクタクタに煮込んだ、アヒル、ウサギ、ホロホロ鳥、ヒバリ、七面鳥などしか出せなくなったという。ドクトル・ダカンのせいで、歯のない王は食べ物を噛むことができなくなってしまったからだ。
ドクトル・ダカンが変な事を言わなければ、太陽王も、もっと長く生きられた事は間違いない。
彼は、アントワネットとルイ16世一家を、革命派の手から逃亡させようと計画を練り、実行する。しかし、そんな必死の助力も実を結ばず、民衆の怒りは王妃を処刑台へと運んでしまう。そして、フェルゼンの命を奪うのも、また民衆の怒りだった。
1810年、フェルゼンがオーストリア国王元帥の資格で、スェーデンのクリスチャン皇太子のお供をしていた時であった。皇太子が、閲兵の最中に脳溢血で急死したのだ。すると、皇太子の死は、フェルゼンに毒殺されたものだというデマが流れた。
葬儀に参加すれば命はない、という脅迫の手紙が何通も彼の元に届いた。勿論、フェルゼンはこれを一笑に付し、堂々と葬儀に参列した。が、やはり事は起こったのだった。
暴徒が、彼の馬車に向かって石を投げたのをきっかけに、フェルゼンは舗道に引きずり下ろされた。そして、1人の大男が、仰向けに横たわる彼に飛び乗り、体を踏みつけて踊った。肋骨が折れ、頭蓋骨が踏み砕かれたのだ。
衣服はズタズタに引き裂かれ、かなりの時間、彼は裸のまま排水溝の中に転がっていたという。既に、意識はなかった。
この時の、粛清がどんなに酷かったかは、ギロチンで処刑されたロラン夫人のこの悲痛な叫びがよく伝えている。「おお自由よ、お前の名のもとにいかに多くの罪悪が行われることよ」
粛清という名の殺戮は、パリから近隣の町におよび、またマルセイユ、リヨンも同じ運命を辿った。ナントの町では、500名もの子ども達を、銃とこん棒で皆殺しにした。ギロチンで公開処刑された子ども達もいたという。
1794年には、ロベスピエールの恐怖政治はますますエスカレートした。しかし、彼自身も、権力争いの末の7月28日、市庁舎に踏み込んだ反ロベスピエールの兵士達に捕えられ、その日のうちにギロチンにかけられた。
革命という名の、歴史に残る大量殺人は、こうしてその幕を下ろした。
それが前代未聞の強力な殺人装置に変わったのは、逆に反った刃を使うようになったおかげなのである。その改良法を提案したのは、ルイ16世だった。つまり、ルイ16世は自分が提案したギロチンの刃でもって、妻のマリーアントワネットと共に処刑されたのである。なんとも皮肉な話しである。→ギロチン直後に意識はあるのか?
ギロチンが使われ始めたのは1792年頃であり、それまでは拷問方法というと、数えきれない程あったという。以下に、何個か紹介しよう。
@目を熱した火皿で焼き潰す
A指を一本づつ大きなカナヅチで潰される
B二枚の板で両足の前後をはさみ、そこへくさびを打ち込んで、はさまれた足を押し潰す。
C両足に塩水をつけて、それをヤギになめさせる。
ルイ11世が好んだのは、首に石の重りをくくりつけて水に投げ込む方法であった。また、城壁に取り付けた檻に閉じ込めて、見世物にする方法もよく使ったという。