ローズ・ベルタンローズ・ベルタン
どんっ(衝撃)アントワネットが王妃になった1774年から、フランス革命の15年間、アントワネットの最大の関心事は自分の服装であり、おしゃれだった。
そこで、王妃がその時代のファッションを創り出したといわれるほどである。
ファッションが最大の関心事であるアントワネットが、その忠告や意見を尊重したのは、身分卑しいただのファッション・ブティックの経営者マリ=ジャンヌ・ベルタンである。
自分で選んだ仕事用の名前はローズ、すなわち薔薇である。デザイナーにふさわしい名前といえよう。
ベルタン嬢は、現在でもパリの有数のファッション街として有名なサント・オレノ街に店を構えていた。
どんっ(衝撃)1744年に北フランスの小都市アヴィルで生まれたベルタンは、16歳の時にパリに出てファッション・ブティックで働きだした。
可愛らしく、頭も悪くないし、ファッション・センスも良く働き者なので、みるみる頭角を現していった。
そうしているうちに、王族のシャルトル公妃がベルタンのお得意様になったため、上流社会に進出するチャンスができたのだ。
そして、1774年にシャルトル公妃の紹介で王妃と対面したのが、ベルタン嬢にとっては、決定的な幸運だったのである。
ベルタン嬢を紹介されるまでは、アントワネットの服装についての趣味は簡素なものだった。
が、ベルタン嬢は毎週少なくとも2回、多ければ毎日のように生地見本やリボンや羽飾りを満載した自家用馬車でパリからベルサイユにやってきては、王妃の私室に引きこもって、何時間も、最新の流行についての意見を出し合い、新しい服の注文をもらうのだった。
王妃があまりにも、ベルタン嬢の意見に耳を傾けるので、世間ではベルタン嬢のことを「王妃のファッション大臣」と呼んでいたほどである。
一平民が王妃の私室に王妃と二人で引きこもるなどということは、格式のうるさいベルサイユ宮殿ではおよそ考えられないルール違反である。年若い王妃は、宮廷の伝統や慣習や、礼儀作法や儀式を平気で先頭にたって無視し破っていたが、これによって自分の存在自体や既得権を無視された貴族などの反感や恨みを買っていることには気付かなかったようである。
更に、国庫の赤字が増える一方なのに、衣装を始めとするアントワネットの浪費ぶりは国民の反感を招いた。
例えば、王妃の衣装用の年間予算は1725年以来12万リーブルであったが、毎年赤字が計上されるのは常識だった。赤字額は1776年は28000リーブル、1783年の83000リーブルと増加している。1783年の赤字については、衣装部屋の主任女官はベルタン嬢のせいだと報告している。
なにしろ、毎年のベルタン嬢への支払いは10万リーブルを超えていた。尚、当時の肉体労働者の平均日給は1リーブルである。

目世論は、最新の流行に弱い王妃を厳しく非難・批判しました。すなわち、最新のファッションの豪華な衣装の購入に大金を浪費して国家財政の破錠を招いたということなのです。
しかも、ベルタン嬢との親密さゆえに、レズビアンの疑いをかけられるなど散々だったのです。
ベルタン嬢と知り合ったことは、アントワネットにとってはマイナスであったのでしょう。
しかし、アントワネットの心情を考えてみると・・・、女性の私自身も、ファッションや買い物などはストレス発散になります。
だから、窮屈な宮廷暮らしの中で、唯一のストレス発散方法だったとは思うのですが・・・、食べることで精一杯な平民からすれば、理解し難いことなのでしょう。


どんっ(衝撃)1993年に、フランスはアントワネットの200回忌を迎えた。
それを記念して、パリでは10月17日に1500人の市民がコンシェルジュリから、コンコルド広場まで、元王妃が処刑される日に辿った道を行列して歩いた。
コンコルド広場の処刑台のあった場所には、白百合とマーガレットの花束が置かれた。
そこで、2000人の市民が、午後12時15分に1分間の黙祷を捧げ、サン=ドゥニの聖堂では死者のためのミサ曲が演奏された。
他方、パリのポルト・ド・ヴェルサイユの体育館では、『私はマリー・アントワネットと申します』という劇が上演され、その際に観衆によって、改めてアントワネットの裁判が行われたという。
その判決の結果はおよそ、国外追放の刑1700票、無罪970票、禁固刑500票、死罪400票しかなかったという。

目フランスでは、未だにアントワネットは悪評高い元王妃で通っているようですが、改めて行われた裁判では、死罪が一番少ない票でした。
当時の民衆からしたら、アントワネットに対する憎しみは、それは相当なものだったのだと思います。
しかし、民衆も、14歳で知らぬ国に嫁いできた孤独な気持ちと、自由のない決められた毎日を過ごす、アントワネットの苦しい心情をわかっていれば・・きっと死刑にはできなかったはずです。
何でも満足し、毎日が幸せ・・・そんな日々が一生続く人間は存在しません。
だからこそ、人が人を裁くことはできないし、ありえないことだと思います。
処刑場へ処刑場へ向かうアントワネットのスケッチ
どんっ(衝撃)午前8時頃、アントワネットは、公判の時の未亡人の喪服から、刑場に行くための衣装に着替えをした。
上は白の普段着を着て、下は黒のスカートをはき、黒いリボンのついた寒冷紗の小さめの帽子をかぶった。もう、靴ははいている一足しかなかった。
午前10時頃、刑場に出発する準備をする為に、アントワネットの独房に、判事と死刑執行人サンソンが現れた。その時、彼女は彼らを案内してきた牢獄の鍵番に、「彼らは私を死刑にしようとしているのをあなたは知ってる?」と呟いたという。
しばらくして、彼女に近付いたサンソンは、「手を出しなさい」と言った。それに狼狽して二歩さがった彼女は、
「私の手を縛るのですか。ルイ16世の手は縛らなかったのに。」
と抗議したが、君の義務を果たしたまえ、と判事から命じられたサンソンによって、彼女は後ろ手に縛られた。
これは、ギロチンの刃が頭髪に妨げられることのないようにするためである。
午前11時15分頃、アントワネットは後ろ手に縛られたまま、普通の罪人にも使われる二輪荷馬車に乗せられて刑場へ向かった。
その日の沿道と処刑場には、彼女の救出を警戒するために3万人の憲兵が動員されていて、沢山の見物人も押しかけていた。
元王妃の荷馬車は、ゆっくり進み、セーヌ川を渡って、サン=トノレ街に出て、見物人からの「共和国万歳!専制を倒せ!」という声を浴びせられながら、右手のジャコバン・クラブの前を通過し、ギロチンのある革命広場(現コンコルド広場)に到着した。
その間、彼女は荷馬車の上に行儀よく、まっすぐに座って、見物の群衆を黙って見ていた。彼女は、付き添いの立憲僧侶とも一言の話しさえしなかった。
目は充血し、頬は赤らんでいたが、顔は青白く、乱暴に短く切られた白髪が帽子からでていた。その様子は、サン=トレノ街で彼女の姿を描いたダヴィットのスケッチに見事に表現されている。(画像)

革命広場に到着したアントワネットは、テュイルリ庭園の方を一瞥した後、誰にも身を支えられずに、身軽に荷馬車から降りた。
そして、毅然とした態度で処刑台の階段を上がり、自分で頭を振って帽子を落とし、死刑執行人に身をゆだねた。
そして、12時15分にギロチンの刃が落とされた。
死刑執行人が、血のしたたる彼女の首を掲げると、周りの見物人たちから「共和国万歳!自由万歳!」という歓声が繰り返しあがったという。

目見苦しい姿をさらすことなく、その首をギロチンに委ね、処刑されたアントワネット。
刑を執行したサンソンによりますと、「さようなら、子ども達。あなた方のお父さんの所に行きます」が、アントワネットの最期の言葉だったそうです。
ランバル夫人ランバル夫人
どんっ(衝撃)アントワネットの奢侈な生活ぶりは、万人の知るとこである。
しかし、その裏には彼女を取り巻く‘遊び友達‘ともいうべき女性がおり、彼女達との‘おつきあい‘が、アントワネットの奢侈ぶりに拍車をかけた。
その、アントワネットに取り入り、遊楽三昧の日々を送った二人の夫人は、ランバル夫人とポリニャック夫人である。
彼女達は、アントワネットが待つ悲劇の末路まで関わり、良友にも悪友にもなったのである。

自分に関心を寄せない夫と不慣れな宮廷生活、そんな折にアントワネットは、ランバル夫人と出会った。未亡人であったランバル夫人であったが、まだ若くて美しく、アントワネットと6つしか違わないランバル夫人を、アントワネットは寵愛し、重用していくようになる。
しかし、信頼を寄せるだけでなく、実利においても優遇し始めた。
ランバル夫人には、約15年もの間、毎年15万リーブル(現在で約10億円)の下賜金が与えられていたという。
アントワネットにしてみれば、献身的に仕えてくれる良き女官であったことには相違ないが、社交性にやや欠ける退屈な女性に映るようになってきた。
そんな時にアントワネットの前に現れたのがポリニャック夫人だった。
ポリニャック夫人は、美貌だけではなく社交性も持ち合わせており、そんなポリニャック夫人に、アントワネットは心を許し、寵愛するようになっていく。
夫人に与えられた下賜金は、約50万リーブル。これだけでも、ランバル夫人との違いがハッキリしている。
更に、ポリニャック夫人には、ランバル夫人にさえ与えられなかった特権があった。それは、王妃の「プチ・トリアノン宮」に招かれたことである。
ここでアントワネットやポリニャック夫人は、斬新なデザインのファッション、首飾り、舞踏会のプランなどを語り合ったという。

ランバル夫人とポリニャック夫人、この二人の命運を分けたのがフランス革命だった。
バスティーユ陥落の報を聞くや、ポリニャック夫人は真っ先にオーストリアへ亡命してしまう。
一方のランバル夫人は、亡命することなくアントワネットらがタンプル塔に移される際、ランバル夫人の姿もあったという。
そして、やがてランバル夫人は王族と別の監獄に移されて、革命の正統性を認めるよう強要されたが、これを拒み続けた。王族達と、命運をともにしようとしたのである。
そして、1792年9月に起こった「9月虐殺」で革命軍兵士や群衆に、惨殺されてしまう。その光景は、あまりにも凄惨を極め、衣装も身体も切り刻まれたという・・。

さて一方、あれだけの寵愛と優遇を受けながらも王族を見捨てて亡命したポリニャック夫人は、偶然にもアントワネットが処刑された1793年に、亡命先のウィーンで病死している。

目アントワネットの親しい友人であるこの二人・・・、どちらがアントワネットにとって真の友人だったかは、もうおわかりですよね。
結局、ポリニャック夫人は自分の利益の為だけにアントワネットに媚を売っていたようにしか見えません。
しかし、ポリニャック夫人は、革命の嵐までは‘おつきあい‘できなかったものの、死期だけは、かつての主に‘おつきあい‘をしています。続きを読む
マリー・テレーズマリー・テレーズ
どんっ(衝撃)1792年、タンプル塔に国王ルイ16世一家は幽閉され、三階と四階が国王一家の居住空間にあてられたが、その時マリー・テレーズ13歳だった。
父が処刑され、続いて母アントワネットは、コンシェルジュリに移送された。
そして、一緒に生活して彼女の面倒を見てくれていた叔母のエリザベスも1794年に、処刑台へ送られ、彼女は独りぼっちになってしまう。
母と叔母が処刑されたこと、4階にいた弟のルイ・シャルルが、翌95年6月8日に死んだことも知らされなかった。
その後、1796年、彼女はオーストリアのウィーンの宮廷で皇帝に迎えられた。母親の実家に戻ったことになる。
まだ彼女は17歳だったが、両親を救い出してくれなかったオーストリアの宮廷に対しては、よい感情をもっていなかったようである。

そして、1799年、アングレーム公爵と結婚をした。しかし、彼は人間的には立派であったが、容貌がひどかった。
しかも、性的不能者とあって、二人の間には子どもができなかった。
その後、亡命の日々を送り1814年、祖国フランスに舞い戻ってくる。
乙女時代には、笑顔の美しい優しい少女だったのに、両親をギロチンで失い、単身で1年以上も狭い塔の中に幽閉され、その後は長年の亡命生活で苦労した為か、帰国した35歳の彼女には、女性としての魅力が欠けていたという。
大柄な身体によく引き締まったウエストとか、灰色がかった薄い金髪などはよいとしても、赤ら顔の険しい表情とか、男のように太くしゃがれて耳障りな声などは、決して美点とはいえず、母が持っていた魅力と愛想の良さに欠けていたわけである。

そして、彼女は最終的にはゴーリッツに定住している。そして1851年、死去している。72歳だった。

目両親とは死に別れ、結婚した相手が性的不能者、しかも一生の半分近くを亡命先で過ごしているのだから、気の毒な一生だったのでしょう。
尚、彼女の人生には愛人や恋人は一人もいなかったようです。
堅物というか、真面目というか、あまりにも人間的に面白味に欠けた女性だったわけです。
フランス革命なんかにでくわなければ、きっと彼女は母親譲りの、魅力的な女性として世に名を残していたことでしょう。
それにしても、写真のマリー・テレーズは、誰かに似ています。こんな女性タレントいましたよね・・?
ルイ・シャルルルイ・シャルル
どんっ(衝撃)父方ブルボン家と母方ハプスブルク家の血統を受け継ぎ、ブロンドの巻き毛とブルーの瞳は母親似であったルイ・シャルル
愛情ある茶目っ気のある性格は、アントワネットの母性をくすぐり、母は「私の愛のキャベツ」と呼び、ありったけの愛情を注いだという。
愛情たっぷりの中で、満たされた日々を送っていたシャルル・・。
しかし、4歳の時に兄が病死し、王太子となった。その直後に、バスティーユ襲撃に端を発するフランス革命が勃発した。
 そして、父、母、叔母が処刑され・・・、彼はタンプルで、1人、孤独と闘うことになる。
陽光も差さず、風も通さない、八畳ほどの独房で、小窓からパンとスープが差し出され、それが一日の唯一の行事。
かさぶたと腫瘍に覆われ、頭は垂れ下がり、顔・脚はやせ衰え、腹部は腫れ、慢性の下痢に苦しむシャルル・・。
革命最中の1795年に、シャルルを診察した外科医は、あまりにも惨い仕打ちを受けた状態に、驚きを隠せなかったという。
シャルルの最期は、呼吸困難に陥り、慌てて抱き上げた看守の腕の中で「長い長い溜息」をついた後、息をひきとったということである。
死因は結核とされたが、「長い間堪え忍んだ、肉体と精神に対する酷い仕打ち」が死因と、王政復活後に訂正しとされている。
そして、タンプルのルイ・シャルルが幽閉されていた部屋の壁には、炭で「ママ、僕は・・・」と書かれていたという。

目ルイ・シャルルすり替え事件は、有名な話しです。
しかし、2000年4月19日に、パリで鑑定結果の記者会見が行われました。
アントワネットの遺髪、心臓の遺伝子がピッタリだったのです。タンプル塔で獄死したのは、まぎれもなく、ルイ・シャルルでした。→シャルルのすり替え事件はでっちあげ?
これは、ある意味で、フランスの歴史が抱える人道的な苦悩にピリオドを打ったことになるのではないでしょうか。
それに、ルイ・シャルルは、自由・平等・博愛をかかげた人権宣言の、舞台裏の犠牲者です。しかし、2000年に、「全ての苦しみ、全ての恨みを忘れなければならない」という、父の遺言を受けたシャルルの真実が明らかにされた意味は大きいのではないでしょうか。
それにしても、タンプルで、部屋の壁に書いたシャルルの言葉・・・。母に、何を語りたかったのでしょうか。
エリザベスエリザベス内親王
どんっ(衝撃)エリザベスは、ルイ16世10歳年下の妹である。
 革命裁判所で死刑判決を受けたアントワネットが、刑場に赴く直前、最後の力を振り絞って義妹エリザベスに宛てた手紙を書き送ったことは有名な話しである。
しかし、遺書とも言うべき最後の手紙を託す相手が、なぜ義妹だったのだろうか?
それはそうと、アントワネットとエリザベスは革命前からずっと大の仲良しだったのである。となれば、遺書を託すべき最適の人間は、エリザベスということになる。
しかし、その手紙は・・・革命裁判所に留め置かれ、エリザベスには届かなかった。
 エリザベスは、すっかりアントワネットの影に隠れ、日本ではあまり知られていないが、なかなか魅力のある女性だったようである。
エリザベスは、アントワネットよりも9歳年下で、革命が勃発した時は、まだ25歳だった。
そして、何かと評判の悪かったアントワネットとは違って、エリザベスは生活ぶりが堅実で、非常に信仰心の厚い女性だった。
人柄が温かく、ヴェルサイユの近くの村に自分の領地を持っていたが、領地で取れる野菜や牛乳を村人達に配っていたという。
「牛乳は、小さな子ども達のものです。全員に配り終えないうちは、とても自分が飲む気にはなれません。」
と、言っていたという。
エリザベス王女については、「天使のような女性だった」という証言がいくつも残されている。
一見、大人しそうでいかにも優しい女性に見えるのだが、乗馬と狩猟が好きなスポーツウーマンでもあり、芯は強く、気丈でしっかりものだったという。
エリザベスが結婚適齢期になると、いくつもの縁談が舞い込んできた。
しかし当時は、いったん他国の王家に嫁いでしまうと、もう生涯実家に帰れないのが普通だった。エリザベスは、フランスから離れたくなかったし、家族とも別れたくなかったようで、ある手紙では次のように語っている。
「私はフランス王女なのですから、私が結婚できるのは、どこかの国王の息子だけです。そして、国王の息子というものは父親の国に君臨しなければなりません。
そうなれば、私はフランス人ではなくなりますが、私はフランス人でいたいのです。
ここ、兄の玉座の足元に留まり続けるほうが、他の玉座に上るよりもマシです。」

こうして、エリザベスは生涯独身でいる道を選んだのである。
1792年、8月10日の王政倒壊後、エリザベスは国王一家と共に、タンプル塔に幽閉された。
革命に激化の兆しが見えてから、エリザベスは逃げようと思えばいくらでも逃げる機会はあったはずである。現に、二人の兄、プロヴァンス伯爵と、アルトワ伯爵は外国に逃げている。
しかし、兄夫婦の事が大好きだったエリザベスには、彼らを放っておいて自分だけが逃げるということができなかったのである。
こうして、彼女は兄夫婦と共に、最期まで運命を共にすることとなったのである。

目心優しき王女は、悲しい末路をたどることとなりました。
まだ、革命の波が押し寄せてこない時期に、エリザベスがアントワネットと一緒にいる所を見たある人物が、こう言っています。
「王妃様が、この地上の最高のプリンセスなら、妹君は天上のプリンセスというご様子です」と。
正に、天上のプリンセスは、断頭台にたつような人物ではなかったのです。しかし、結局の所、国王の妹に生まれたことが罪だった、という他はありません。
それが、革命なのでしょう。

むかっ(怒り)少女アントワネットは、決して美人とはいえなかった。
広い顔に、鉤鼻、尊大な表情に見える下唇、やや不ぞろいの歯並び。
しかし、金髪に碧い目、輝くような色艶の顔と透き通るように白い肌が、人々を惹きつけたという。
それにもまして、優雅な立ち居振る舞いと、滑るように軽やかに歩く姿に人々は魅了された。
自由で活発な少女は、母譲りの踊りを最も得意とした。また、音楽の才能にも長けていた。
春や夏の国家行事には、一家はウィーン中心部に近いシェーンブルン宮殿を使った。そして、音楽好きな一家は、しばしばここでパーティーを開いた。
アントワネットは6歳の時に、「ザルツブルクの神童」といわれた、かの有名なモーツアルトに出会っている。
鏡の間でモーツアルトが滑って尻もちをつくと、助け起こした親切なアントワネットに、「僕が大きくなったらお嫁さんにしてあげる」と言ったというエピソードが残っている。
創作ではないかという説もあるが、互いに6歳という年齢を考えれば、「結婚」の意味が何たるかもわからずに、モーツアルトが「いい人」という程度の意味でいったのであろう。

目まず、アントワネットはかつて嫁いだ日に、フランスの民衆から「フランス一、かわいらしいお姫様」と称賛の歓声を送られたということがあったが、決して美人ではないという事に、驚きを感じました。
そう、アントワネットは雰囲気で人々を魅了したわけです。
顔ではなく、雰囲気で人々を虜にするなどということは、かなり難しいことではないでしょうか?
モーツアルトとのエピソードも聞くと、アントワネットは、相当な魅力を持った人なのがわかります!!
現在では、肖像画でしか、アントワネットを見ることはできませんが、きっと実際に目の前にいたら誰もが魅了されるのでしょう。
ルイ15世ルイ15世若き日
どんっ(衝撃)ルイ15世の孫のルイ16世の嫁候補アントワネットがどんな娘か、実物を検分に行ってきた大使に向かい、まず真っ先に15世が聞いたのは、「胸は大きかったか?」だそうである。
そろそろ60歳になろうという彼は、とっくに「こよなく愛される王」ではなく、「こよなく無差別に女達を愛する王」となり果てており、国民の人気も宮廷人の尊敬も失われていた。
晩年の15世が、いかに腑抜けであったかは、勃発した孫嫁アントワネットと、愛人デュ・バリー夫人激突をうまく納められず、いたずらに長引かせたことからもうかがえる。
王は、娼婦あがりのデュ・バリー夫人に鼻面を引き回されながら、なおまだ彼女だけでは退屈を紛らせられなかったのか、一夜限りの少女達とのお娯しみを継続していた。
今で言う、ロリコンに近かったらしく、ダルジャンソン侯爵は回想録で、「少女達を相手に刺激を得ようとしていた」と書いている。
写真のルイ15世は若き頃であるが、美青年だったらしい。しかし、もうこの頃には美青年の面影は薄れ、狒々爺(ひひじじい)といった趣だったらしい。
そして、天然痘に倒れたのも、「若い赤毛の百姓娘と関係」して、彼女からうつされたと言われている。
そして、15世が死の床について様子を、ツヴァイクは『マリー・アントワネット』(中野京子訳。角川文庫)で、こう描写している・・。

「そうこうするうち病魔は、王の衰弱し消耗した肉体に死の殴打を加える。
凄まじく膨れ、一面に発疹の出た王の身体は、一瞬も意識は失われないのに、不気味な崩壊へと移ってゆく。
娘たちも、デュ・バリー夫人も、勇気を振り絞って耐えているが、窓を開けていてさえ、ペストのような悪臭が王の部屋に充満する。
人間が死ぬというより、黒ずみ膨張した腐肉が崩れてゆくのだ。なのに、ルイ15世の肉体は、ブルボンの祖先全部の力が集まったかのように、絶え間ない破壊に巨人のごとく抵抗する。
誰にとっても恐ろしい数日だ。
召使達は、凄まじい臭気に気を失い、娘達はなけなしの気力をふりしぼる。
侍医達は、とうに諦めて手を引き、宮廷は身の毛もよだつこの悲劇が早く終らないかと、じりじりしながら待つ。(中略)
しかし旧家ブルボンの巨大な肉体は、なおもう一日持ちこたえる。5月10日火曜日午後三時半、ついにロウソクは消えた。
ささやき声は、すぐにざわめきに変わる。部屋から部屋へ、飛沫をあげる波のように、ニュースが、叫び声が、高まる歓声が走り抜ける。『国王、崩御、国王、万歳!』」

こうして、15世の長い退屈は終った。

目天の恵みとして与えられた頑健な肉体が、かえって死を残酷に長引かせたとは、何と皮肉なことでしょう。
また、彼の死がいかに多くの人々に喜ばれたか、恐るべきものです。
そして、なんといっても、天然痘の原因は・・・女性関係でした。
15世の、女関係が災いして自分に病魔として襲いかかってきたわけです。
いつの時代でも、異性関係は慎むべきです!
080324_1425~001.jpgルイ・フェルディナン
どんっ(衝撃)ルイ16世は、ルイ15世の長男である、ルイ・フェルディナン(写真)の三男であった。
フランスでは、王位は長子から長子へと受け継がれる決まりが厳密に守られるので、二人の兄のいずれか1人でも健在であれば、彼が国王になることはなかった。
次兄が死んだのは、ルイ16世が生まれる前のことだったのだが、三つ年上の長兄ルイ・ジョゼフとは一緒に遊びながら育った。
長兄は利発・活発で、彼にとっても実に頼もしい兄だった。
しかし、大好きで尊敬もしていた兄が10歳で病死したことが、彼の心に暗い陰を落とした。
そして、父親のフェルディナンも1758年に36歳という若さで病死したため、ルイ16世は11歳で王太子になったのだ。

目運命なのでしょうか??父親、兄2人共に病死をしてしまい、ルイ16世が跡継ぎとなる・・・。
きっと、尊敬していた長兄が健在であったならば・・・フランス革命というものはおきず、アントワネットも、悲劇の女王なんて言われることはなかったのでは・・・?
ところで、写真のルイ16世の父親はわりと、童顔ですね。健在ならば、彼がルイ16世を名乗るハズだったのですね。
心臓鑑定に使用されたシャルルの心臓
どんっ(衝撃)‘謎のルイ17世すり替え事件‘というものが世間では騒がれていましたが、2000年の時点で、その謎は解けていたようです。
兄ルイ・ジョゼフの死に伴い王太子となり、父の処刑によってルイ17世となったルイ・シャルル
両親と共にベルサイユを追われた時は僅か4歳。
父は断頭台へ上がり、母とも引き離されたシャルルは、革命市議会議員の靴屋のシモン夫妻に預けられて、革命思想の洗脳教育を受けます。
幼い子供の高い順応性は、あっという間に母を罵倒するほどの変化を示しましたが、1794年に再びタンプル塔に幽閉されてしまいました。
与えられるのは食事のみ。遊び道具も、話し相手もない薄暗い部屋で孤独な生活を送った彼は、1795年僅か10歳で病死しました。

しかし、彼の死亡時の状況に不明な点が多いため、サント・マルグリット教会の墓地に埋葬された少年は、ルイ・シャルルの身代わりで、本人は脱出に成功して生存しているという説が根強く囁かれました。
実際に、何人もの人間が自らをルイ・シャルルと名乗って現れたこともありますが、2000年、墓地に埋葬された少年の心臓と、母であるアントワネット遺髪によるDNA鑑定が行われ、少年とアントワネットの親子関係が証明されました。
国王の遺体は、心臓を身体から摘出して別に保存するしきたりがあり、少年の遺体も同様に処置されて心臓だけが密かにサン・ドニ大聖堂へと運ばれていた為、鑑定が可能となったわけです。

目2000年といえば、ついこないだです。それまで、ずっとルイ・シャルルはすり替えられたと騒がれていたのです。
やはり、可哀相な少年はシャルル本人だったのですね。
まだ幼いのにもかかわらず、酷い仕打ちを受けたシャルル・・・。安らかに眠って欲しい限りです。

どんっ(衝撃)‘嫉妬‘という漢字には、「女」が二つもくっついています。
その通りであって、女は嫉妬深いのです。特に、恋愛モードに入った時のそれは狂気に近付きます。
男が、「別にどうでもいいじゃないか」と感じながら、適当に聞き流す女の訴えは、確かに大半はどうでもいいことなのですが、それは漏れてきた臭いを嗅いでいるだけのこと・・。
時折、その嫉妬をブチ撒けてしまう女がいて、男は言う。
「女の嫉妬は怖い」と・・。当の女達も、自覚のあるなしは別として、それを否定しない。「そうよ、女の嫉妬は怖いのよ。」
では、男は嫉妬しないのでしょうか?しても、恐れるほどのものではないのでしょうか?
とんでもない・・・・ベクトルが違うだけで、男も大いに嫉妬するのです。

どんっ(衝撃)ルイ14世が、王家の狩場だったパリ郊外のベルサイユに王宮建設を思い立ったのも、実は嫉妬が原動力といえるのです。嫉妬の矛先は、財務卿ニコラ・フーケです。
フォンテーヌブロー近郊に、当代随一の技術と芸術の粋を集めてフーケが建てたヴォー・ル・ヴィコント城は、あまりにも見事過ぎたのです。当時の王室は、ブロー、サン・ジェルマン・アン・レイ、ルーヴルなどに城を持っていましたが、ヴォー・ル・ヴィコント城を凌ぐものは皆無だったのです。
その事実は、ルイ14世には耐え難く、ヴォー・ル・ヴィコント城の規模も美しさも遥かに上回る城を建てられずにはいられなくなったのです。
しかし、理由はそれだけではありません。ルイ14世には、自分がフーケよりも上であることを思い知らせたい理由が他にもあったのです。

ヴォー・ル・ヴィコント城の評価の高さは、フーケの芸術性への称賛でもあったのです。一流の文化人を自負するルイ14世には、それが許せなかったのです。自ら太陽王を名乗るルイ14世は、いつでも誰よりも称賛されなければならないのです。
しかも、フーケは国王の愛妾であるラ・ヴァリエール夫人に近付いているという噂もありました。
男としての沽券にまで関わりかねないフーケの存在を、太陽王が許すはずもありません。

かくてフーケは、冤罪とも思われる公金横領の罪であえなく終身刑となります。ルイ14世の逆鱗に触れた結果ではあるのですが、ここにはもうひとつの男の嫉妬が潜んでいました。
フーケの存在を面白く思わない人物が、もう1人いたのです。フーケの更迭後に財務卿となるジャン・バティスト・コルベールです。フーケの公金横領は、彼を追い落とし、後釜を狙ったコルベールの策謀と言われています。
思惑通りにフーケを排したコルベールは、財務卿、国務長官、そして王宮建築長官として、ベルサイユ宮殿に大きく関わっていくことになるのです。

フーケがヴォー・ル・ヴィコント城にルイ14世を招いたその3週間後に彼は逮捕されています。
年内には、ルイ14世から、ル・ヴォー、ル・ノートル、ル・ブランらに対してベルサイユ宮殿造営の命が下っています。彼らは皆、ヴォー・ル・ヴィコント城に携わった建築家・造園家です。正に、電光石火。ルイ14世は、本気で悔しかったと見えます。

目半世紀以上をかけて造営された華麗なる宮殿と、その周囲はやがて政治の中心となり、数万人が住み暮らす巨大な権力の場となっていきます。
その壮大な歴史絵巻の全てを嫉妬心の成せる技とはいいませんが、少なくとも引き金になったことは間違えないのではないでしょうか。
女の嫉妬も怖いものですが、男の嫉妬もあなどるべからずです。
どんっ(衝撃)愛するアントワネットの為に、国王一家の亡命を画策したフェルゼン
厳しい警護のチュイルリー宮を抜けて国境を目指し、アントワネットの母国オーストリア軍と合流するこの計画は、国境まで50キロに迫ったヴァレンヌで発覚・・・。
ラストチャンスを逃したルイ16世夫妻の運命は、断頭台への階段を昇り始めてしまった。→ヴァレンヌ航空写真

逃亡ルート
6月20日 夜 サン・マルタン門からボンディの森へ
警備の目をくらます為に、別々にチュイルリー宮を出た一家は辻馬車で合流する。
サン・マルタン門をくぐってパリ郊外に脱出。ボンディの森に隠してあったベルリン馬車に乗り換えて、国境を目指した。
この時点で、不慣れなフェルゼンが道に迷うなどで2時間以上をロスしている。フェルゼン〜〜!
6月21日 朝 モーに到着
肉料理屋で朝食を済ませた後、シャロンへ向かう。
チュイルリー宮では国王一家の逃亡が発覚する。
6月21日 夕方 シャロン到着
郊外では珍しい豪華な馬車に人が群がり、ここを出発する頃には身元がバレはじめてしまう。
フェルゼンの危惧していた事態が起ころうとしていた・・。
シャロンから10キロ先では一家を警護するための軍隊が午後2時の約束で待機をしていたが、一向に現れないので撤退する。その直後に到着した国王一家とすれ違ってしまった。
6月21日 深夜 ヴァレンヌ到着

本人たちの到着よりも早く、国王逃亡の噂が届いていたヴァレンヌで、彼らは地元の民衆に取り囲まれて、その旅を終えた。
たった一日で辿りついたルートを、国王一家は3日間かけてパリへ引き返した。
葬列のように沈んだ馬車は、はやし立て、怒号を浴びせる民衆の間を縫って静かに進んだ。

何がいけなかったのか?
豪華すぎた馬車
警護の厳しいパリの街を抜けるまでは、ありたきりの辻馬車。そして、パリ郊外で長距離用の馬車を2台用意して、国王と王妃を別行動させるのがフェルゼンの計画であった。あくまでも目立たずに、一刻も早く国境をこえるためだった。
しかし、アントワネットは、国王と離れることを拒否。さらに、豪華なベルリン馬車を要求した。
荷物もワイン1樽の他、銀食器などと、およそ逃亡とは思えない内容だった。
道中はピクニック気分
ベルばら上でも、ルイ・シャルルが馬車の窓から景色を見てはしゃぐシーンがあるが、史実もこれと変わらない様子が窺える。
ルイ16世と子供たちは、途中で馬車を降り、近くを散策している。彼は、通ってきた道筋を特製の地図に書き込むなど、道中を楽しんでいるかのようであった。
とても命がけの逃亡とは思えない悠長な時間を過ごしたあげく、馬車の転倒や故障で、ここでも2時間近くを無駄にした。

目フェルゼンの計画どおりに、辻馬車で目立たないよう移動していれば・・アントワネットがワガママを言わなければ・・・。そして、国王一家がもっと緊張感を持っていれば・・。
このようなエピソードを見ると、見つかって当然だったような気もします。逃亡というよりも、正に旅行です。
どんっ(衝撃)黒い騎士の正体は、新聞記者のベルナールアンドレの左目から光を奪い、オスカル様に、「王妃の犬め」と罵声をあびせたものの、見逃してもらい、あげくの果てにはロザリーを、ものにしてしまうという、‘おまえ、ちょっとまて・・・!‘と突っ込みたくなる人物である。
そのベルナールのモデルは存在し、カミーユ・デムーランという男なのである。
ルイ・ル・グラン学院でロベスピエールと共に学んだデムーランは、弁護士としては成功しなかったが、ジャーナリストとして頭角を現し始める。
1789年7月にネッケルの罷免を知ってパレ・ロワイヤル前で行った演説は、バスティーユ襲撃のきっかけとなった。しかし・・・1793年に、ロベスピエールを批判したことで、翌年処刑されている。
彼の妻のロザリー・・ではなく、リュシルは裕福な役人の娘だったが、リュクサンブール公園で出会ったデムーランと恋に落ち、周囲の反対を押し切って結婚したという。
夫を心から愛していたリュシルは、逮捕された夫を助け出すために、ありとあらゆる手段を講じるが失敗に終る・・。
夫の処刑後、自身も反乱分子の汚名を着せられ処刑されることとなった。彼女は、「もうすぐカミーユと会えるわ」と嬉しそうに断頭台に登っていったという。
目リュシルは、本当にロザリーのような女性です。それはおいといて、ベルナールは、なんだかんだ市民をまとめる力をもっているわけで、しかも黒い騎士として貧しい市民にとってはヒーロー的存在だったのでしょう。
熱意ってすごいですね・・。


メゾンラフィット
どんっ(衝撃)この写真は、メゾン・ラフィット城と言って1640年代にマンサールによって建てられた。
18世紀にはアルトア伯が所有していたため、ルイ14世やルイ16世夫妻も宿泊したという城である。
目と、いうわけでこの城は、ブルボン王家には縁があるわけですが、実在のジャルジェ家とは無関係です。しかし・・・この外観からは、どうしてもオスカルを立たせてみたくなる佇まいです。
オスカルは存在しない・・・わかってはいるのですが、この外観はジャルジェ家と重なってしまいます。

どんっ(衝撃)1770年、王太子妃時代のアントワネットが、母マリアテレジアに宛てた手紙に書かれた彼女の日々は次の通りである。
9時半から10時に起床
朝のお祈りをする。
朝食後は叔母様方の部屋で過ごす。
11時から髪のセット。
正午より拝謁。
ミサ。
昼食後、自由時間。
15時に叔母様方の部屋へ。
16時に神父訪問。
17時から18時はクラブサンか歌の稽古。
18時半から散歩。
19時から21時までトランプゲームか散歩。
21時より夕食。
その後は叔母様方の部屋へ。
22時45分に国王が現れるのを待ち、23時に就寝。

最後に書かれた「これが私の一日の全てです」が妙に物悲しく感じられる。
目全て決まっているというのが嫌になります。
しかも、叔母様方の部屋へ行くのが一日に3度もありますが、何しにいっているのでしょうか・・・。
この一日を見ると、自由というものが感じられません。可哀相ですね。
どんっ(衝撃)「ベルサイユのばら」上でも、入浴シーンというものが見られなかったが、一体この時代は入浴についてどうだったのだろうか・・・?
それはそうと、ベルサイユでは入浴習慣があまり定着していなかったそうである。
しかし、アントワネットは比較的お風呂好きだったようである。
その入浴方法は・・ガウンのボタンを留めたまま浴槽に浸かるだけであり、お湯の中でホットチョコレートを飲んだり、軽い軽食を摂ったりと、優雅ではあるが清潔とは言い難いものがある・・。
目月1回の入浴で、しかも浴槽に浸かるだけ。体や髪の毛を洗わない・・・想像しただけで痒くなってきます。
それに、フランスで香水が発達したのは、体臭を隠すためといわれる理由がわかりますね。
まあ、みんなで臭ければ怖くない!!という感じですか。
どんっ(衝撃)「ベルサイユのばら」作中で有名なシーンといえば、押し寄せた群衆の前にアントワネットが、たった一人でバルコニーへ進み出る。そして、優雅にお辞儀をする美しいシーンである。その光景に、群衆は王妃の威厳に満ちた姿に感動し、「王妃万歳!」と言ってしまう程である・・・。
しかし、遺されている絵画の中では、狭いバルコニーに国王夫妻の他、大臣などがひきしめ合い・・ちょっとしたすし詰め状態なのである。更に、ルイ16世は群衆に手を差し伸べ、王妃は腕に王子を抱いているのだという・・・。
目これが史実だとしても、やはり・・・ベルバラファンとしては、アントワネットが優雅にお辞儀をする光景をイメージしたいものであります。
どんっ(衝撃)アントワネットの母親は、マリア・テレジアである。では、父親は・・・?
「ベルサイユのばら」上では、一度も出てこない父親の名は、フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンという、これまた長ったらしい名である。
そして、小国ロートリンゲンの次男であり、幼いマリア・テレジアの初恋の相手なのである。この時代には珍しく、アントワネットの両親は恋愛結婚に近い形で結ばれているのである。
しかし・・・類いまれな政治力を持った妻に対し、夫フランツは、財務の面では非凡な能力を発揮したが、政治には介入しなかったという。更に、性格は明るく楽天家で遊び好き・・・。宝石をはじめとする美しいものに目がなく、彼のコレクションは現在もウィーンの自然史博物館に陳列されているという。
目どう見ても、アントワネットは父親似ということになります。
夫より妻の方が政治力があるということに対して、アントワネットの父親は何も思わなかったのでしょうか。‘楽天家‘というのは、いいことでもありますが・・・男として、プライドを持って欲しい所です。
どんっ(衝撃)首飾り事件で渦中の人となったローアン大司教は、僅か28歳でアカデミー会員になった優秀さを買われてストラスブールで聖職に就いたのを皮切りに、ウィーン駐在大使、宮中祠祭長、ローマ法王庁枢機卿を歴任の後、ストラスブールの大司教となったフランス聖界の実力者である。そして、アントワネットの輿入れの際に、ストラスブールで彼女に歓迎の言葉を述べたのもこの人である。
しかし、聖職者にあるまじき放蕩ぶりでアントワネットの不興を買っていた彼は、王妃との間をとりなしてくれるというジャンヌ・ラ・モット夫人の口車にまんまと騙されるのである。
王妃が、宝石商べメールが売りに出していた時価200万リーブルのダイヤの首飾りを購入したがっているとローアンに吹き込み、その保証人に仕立て上げ、代金の一部まで巻き上げて手に入れた首飾りを、ジャンヌは分散させて国外へ売り飛ばしたのである。
一方べメールは、代金がいつまでも支払われないことに業を煮やし、国王夫妻に直談判する。そして・・・首飾り事件が発覚したというわけである。
 すっかりとジャンヌに騙されていたローアン大司教の立場を思いやって事を荒立てまいとしたルイ16世に対して、毛嫌いしているローアンが、自分の名前を出して釈明することに激怒したアントワネットは、彼の逮捕を要求する。そして、高等法院の法廷へ追いやったのだった。
 結果、ジャンヌは極刑を言い渡されたが、ローアン大司教は無罪。巻き添えを食った被害者であるはずのアントワネットだが、国民は王妃の贅沢への嫌悪感と不信感を募らせたのだった。
 コンシェルジュリーに隣接する裁判所の前庭で、主犯のジャンヌに対する鞭打ちと、焼きごての公開処刑は行われた。受刑後、彼女は終身禁錮刑で収監されたサルペトリエール監獄から脱獄する。その手口の鮮やかさは、ルイ16世の従兄弟であるオルレアン公が関与しているとの噂が立つほどだったという。
 逃亡先のロンドンで「回想録」を発表し、アントワネットの評判をたちまち悪くすることとなった。しかし、ジャンヌは1791年に自宅の窓から転落死をする。最期まで、スキャンダラスな人生だったというわけである。
目有名な「首飾り事件」・・・。しかし、ジャンヌはずる賢く、頭良すぎです。それに、ここまでスキャンダラスな人生は普通送れません。
ローアンもバカというか・・・単純というか・・・。情けなくなってしまいます。そして、一番可哀相なのは全く無関係であるアントワネットです。この事件で国民の王妃に対する目は、ますます悪くなりました。
正に、フランス革命の引き金ともいえる事件でした。


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