久しぶりの動画カテゴリからの更新です。
アンドレがなくなった日のオスカルを以前にご紹介したことがありました。

参照:アンドレの死・・その夜オスカルは?動画

今回は実写版、花組「アンドレ最期」をご紹介したいと思います。
オスカル:真矢みきmaya miki
アンドレ:朝香じゅんasaka jun
ロザリー:峰丘奈知mineoka nachi
ベルナール:舵一星kaji issei
動画は下記からどうぞ


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決してこのサイトはこの状態で終わったわけではございません。

再開は3月中旬〜下旬頃を予定しいます。
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申し訳ありません。

今後とも
「ベルサイユのばら薔薇薔薇研究所」
をよろしくお願いします。
oskar.jpg バスティーユはオスカル達の活躍により、ついに陥落する。だが、オスカルもまた狙撃され、アンドレの後を追った・・・。ちなみにこのシーンは、テレビ版ではオスカルの生存してた頃のシーンが思い出されるかのようにいくつかでてきて、悲しいBGMと共に涙を誘います・・・。
 そして、残されたアントワネットにも運命は容赦なく押し寄せる。同年8月には「人権宣言」が採択されて革命は成就するが10月、ベルサイユ宮殿に飢えた市民がなだれ込み、国王一家はベルサイユから退去してパリに移された。
悪化する状況に、ポリニャック夫人及び多くの貴族が亡命するが、フェルゼンはフランスに戻り、国王一家の亡命を画策することに・・・。
1791年6月、計画は決行され国王一家はパリを脱出してオーストリアを目指すが、フェルゼンの奔走虚しくあと一歩の所で失敗し、一家はパリに連れ戻される・・・。パリまでの長い時間、アントワネットは市民に様々な罵声を浴びせられ、あまりにもの恐怖に、美しかったブロンドが白髪化することとなってしまう。国王一家のラストチャンス!ヴァレンヌ逃亡
 国王の逃亡未遂に激怒した国民に押され、フランスは翌1792年に共和政に移行し、国王の退位が決定する。更に、新たに召集された国民公会の採択で、国王の処刑が僅か1票差で可決してしまう。1793年1月、ルイ16世は王として最後の威厳を示し、処刑された・・・。
夫を殺され、王子までも取り上げられたアントワネットに、最後の試練が訪れる。→罪もない国王の子ども達
同年10月、屈辱的な裁判の後に、アントワネットも断頭台の露と消える。彼女は、最後の最後まで冷静に、王妃らしくふるまったという・・・。アントワネットの最後
 こうして、かつてベルサイユ宮殿に咲き乱れた薔薇たちは散った。ただひとり残されたフェルゼンに死が訪れたのは、1810年のことである。愛するアントワネットの命を奪った国民に対して憎しみを抱き、冷酷な権力者となり、彼を憎む民衆の手で虐殺されたのだ。→フェルゼン伯虐殺事件
オスカルとアンドレ 日増しに世情不安になるパリに「黒い騎士」と呼ばれる盗賊が現れた。
オスカルは、黒い騎士を捕らえるがアンドレは、引き換えに片目を失ってしまう・・・。騎士の正体は、後に革命を指導するロベスピエールの同志で、ロザリーの恩人でもあるベルナールであった。
オスカルは、その思想に共感して彼を解放し、自ら近衛隊からの除隊を志願、代わりにゴロつきばかりのフランス衛兵隊の部隊長に就役する。ちなみに、オスカルがアントワネットに近衛を辞めたいと願いでた時のセリフが、「オスカルの最初にして最後の我儘でございます」です。素敵ですね揺れるハート
一筋縄ではいかない衛兵隊員との対立を乗り越え、徐々に彼等の信頼を得るオスカル。そんな彼女への想いを、アンドレは抑えられなくなる。一度は拒絶したオスカルだが、アンドレの一途な想いに心打たれ、彼に惹かれてゆく。しかし、アンドレは光を失いつつあった・・・。
 他の男からの求婚を断るほどにアンドレを愛するようになるオスカル。だが、歴史は二人を押し流す・・・・。
新税導入に端を発した争いは、平民議員を交えた三部会開催までに発展する。更に平民は、国民議会設立を宣言し、国王側と対立する。
事態を打開すべく、国王側は武力行使に踏み切り、オスカルの部隊にも進軍命令が下った。運命の日の前夜、オスカルはアンドレと結ばれる・・・アンドレとオスカル結ばれる
1789年7月13日、軍が市民に発砲したのを知ったオスカルは、市民に味方することを宣言、国王軍と交戦する。だが、激闘の中でやっと愛し合えたアンドレが戦死し、オスカルは悲しみにくれる。しかし、アンドレに昔言われた「武官は、どんな時でも感情で動くものではない」という言葉を思い返し・・・彼女は、悲しみをこらえてバスティーユに部隊を向けた・・・。
antowanetto.jpg 貧しさに苦しんでいたフランス国民は、初め若き国王夫妻の治世に期待するが、それは次第に失望に変わる。
些細なことで、庶民の子どもを射殺したド・ゲメネ公爵を国王の前で罵倒して謹慎処分になったオスカルは、その後貴族の馬車に母を轢き殺され、孤児となったロザリーという少女を保護する。ロザリーは、以前パリ市街で病気の母の為に金が必要であり、てっきり男だと思ったオスカルに「私を一晩買ってください」と身売りをしようとしたことがあった。当時、まだ彼女は12歳だった。
 一方のアントワネットは、国民の苦難など知るよしもなく、親友であるポリニャック夫人との交遊に夢中になっていた。そして、フェルゼンに感じた胸の高まりは、いつしか激しい愛へと変わっていく・・・。オスカルも、またフェルゼンに惹かれ始めていたが、彼女はその感情を表すことはなく、またアンドレもそんなオスカルを見守ることしかできず、苦悩していた・・・。
 王女が誕生したのを機に、アントワネットはプチトリアノン宮に転居し、国費を浪費して庭園を造園する。母のマリア・テレジアは彼女を心配するが1780年に63年の生涯を閉じた。→マリアテレジアが怒った娘の肖像画
死の直前まで、愛娘の身を案じていたという。→浪費の女王アントワネット
母の死を悲しむアントワネットを、更なる悲劇が襲う。ロザリーの姉、ジャンヌがアントワネットのサインを偽造し、ローアン大司教をたぶらかして160万リーブルもの首飾りを騙し取ったのだ。世に言う「首飾り事件」である。→王妃人気凋落の引き金「首飾り事件」
事が露見して、オスカルに捕らえられたジャンヌだが、全ては自分と同性愛関係にあった王妃の指示だと主張する。アントワネットは激怒するものの、判決は彼女の意に反したものだった。国民の心は、すでに彼女から離れていたのだ・・・・・。

berusaiyu3.jpg王太子妃となったアントワネットは、全フランス国民から祝福される。
1773年、アントワネットが初めてパリを訪れた時は、幾万もの市民が沿道を埋めつくし、彼女を歓喜で迎えた。羽のように軽やかな足取り、気高く堂々とした身のこなし、そしてオーストリアハプスブルク家独特のつんとした唇からこぼれる輝く微笑み、しかし・・・中でもパリ市民を驚かせ魅了させたのは、ミルクに紅薔薇の花びらを浮かべたようなアントワネットの比類を絶する美しい真珠のような肌の色合いであった。しかし・・彼女のベルサイユでの生活は、決して幸福に満ち溢れていたわけではない。
誇り高いアントワネットは、ルイ15世が君臨するベルサイユで、彼の愛妾であるデュ・バリー夫人が娼婦出身であることを嫌悪し、彼女を徹底的に無視し、夫人と激しく対立してしまう。それはそうと、オーストリアの母マリア・テレジアは、アントワネットが幼い頃から、体を売る女・・・娼婦、売春婦は女性として人間として最も卑しいことだと教えをしていたからだった。
オスカルをも巻き込んだ女の争いだったが、30歳も年の離れた愛人に心を奪われていたルイ15世は、同盟破棄も辞さない勢いで激怒し、アントワネットに妥協を厳命、彼女はしぶしぶ命令を受け入れる
ついにデュ・バリー夫人に屈服したアントワネットは、宮廷生活にも退屈し、オスカルを護衛として連れてオペラ座の仮装舞踏会に出かける。そこで二人はフェルゼンと初めて出会う・・・。
不注意でアントワネットを危険にさらしたオスカルの従者・アンドレを、フェルゼンがオスカルと共に懸命にかばったこともあり、3人の仲は急速に接近していった。オスカルに命を救われたアンドレは、いつか彼女の為に命を捨てる覚悟をする・・・。
そんな時、国王ルイ15世が突然の病魔に倒れて逝去し、アントワネットの夫である王太子ルイがルイ16世として即位。同時にデュ・バリー夫人は失脚し、ベルサイユを追放。→デュ・バリー夫人のシンデレラ物語
アントワネットは、名実ともにベルサイユ・・フランスの女王となった。
bara.gif「ベルサイユのばら」は、1972年「週刊マーガレット」で連載が開始し、多くの人々を魅了した作品です。

1755年・・・後にフランスの仮面舞踏会で、運命の出会いをする3人の人物が、奇しくも同じ年に生を受けた。
1人は、フランス王家に代々武官として仕えるジャルジェ将軍の末娘として生まれながら、男として育てられるオスカル
もう1人は、北欧・スウェーデンの名門に生まれたフェルゼン
そして、最後の1人はオーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘のマリア・アントニア・・・後のフランス王妃マリーアントワネット
大国オーストリアの王女として、何不自由なく育てられたアントワネットは美しく、あまりにも純粋無垢に成長するが、優れた政治家でもあった彼女の母親は、幼いアントワネットとフランス王太子ルイ・・後のルイ16世との政略結婚を画策する。これにより、フランスとの同盟は両国に平和と繁栄をもたらすはずだったからである。
 こうして、未だ恋も知らない14歳のアントワネットはフランスに嫁ぐことになる。その新婦をベルサイユまで護衛したのが、近衛連隊の大尉・・気高く立派に成長したオスカルであった。近衛連隊長オスカル大尉
1770年、ベルサイユ宮殿で壮麗な結婚式が行われたが、この未熟な新郎と新婦の間には、愛と呼べるものはまだ存在していなかった。
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