ランバル夫人ランバル夫人
どんっ(衝撃)アントワネットの奢侈な生活ぶりは、万人の知るとこである。
しかし、その裏には彼女を取り巻く‘遊び友達‘ともいうべき女性がおり、彼女達との‘おつきあい‘が、アントワネットの奢侈ぶりに拍車をかけた。
その、アントワネットに取り入り、遊楽三昧の日々を送った二人の夫人は、ランバル夫人とポリニャック夫人である。
彼女達は、アントワネットが待つ悲劇の末路まで関わり、良友にも悪友にもなったのである。

自分に関心を寄せない夫と不慣れな宮廷生活、そんな折にアントワネットは、ランバル夫人と出会った。未亡人であったランバル夫人であったが、まだ若くて美しく、アントワネットと6つしか違わないランバル夫人を、アントワネットは寵愛し、重用していくようになる。
しかし、信頼を寄せるだけでなく、実利においても優遇し始めた。
ランバル夫人には、約15年もの間、毎年15万リーブル(現在で約10億円)の下賜金が与えられていたという。
アントワネットにしてみれば、献身的に仕えてくれる良き女官であったことには相違ないが、社交性にやや欠ける退屈な女性に映るようになってきた。
そんな時にアントワネットの前に現れたのがポリニャック夫人だった。
ポリニャック夫人は、美貌だけではなく社交性も持ち合わせており、そんなポリニャック夫人に、アントワネットは心を許し、寵愛するようになっていく。
夫人に与えられた下賜金は、約50万リーブル。これだけでも、ランバル夫人との違いがハッキリしている。
更に、ポリニャック夫人には、ランバル夫人にさえ与えられなかった特権があった。それは、王妃の「プチ・トリアノン宮」に招かれたことである。
ここでアントワネットやポリニャック夫人は、斬新なデザインのファッション、首飾り、舞踏会のプランなどを語り合ったという。

ランバル夫人とポリニャック夫人、この二人の命運を分けたのがフランス革命だった。
バスティーユ陥落の報を聞くや、ポリニャック夫人は真っ先にオーストリアへ亡命してしまう。
一方のランバル夫人は、亡命することなくアントワネットらがタンプル塔に移される際、ランバル夫人の姿もあったという。
そして、やがてランバル夫人は王族と別の監獄に移されて、革命の正統性を認めるよう強要されたが、これを拒み続けた。王族達と、命運をともにしようとしたのである。
そして、1792年9月に起こった「9月虐殺」で革命軍兵士や群衆に、惨殺されてしまう。その光景は、あまりにも凄惨を極め、衣装も身体も切り刻まれたという・・。

さて一方、あれだけの寵愛と優遇を受けながらも王族を見捨てて亡命したポリニャック夫人は、偶然にもアントワネットが処刑された1793年に、亡命先のウィーンで病死している。

目アントワネットの親しい友人であるこの二人・・・、どちらがアントワネットにとって真の友人だったかは、もうおわかりですよね。
結局、ポリニャック夫人は自分の利益の為だけにアントワネットに媚を売っていたようにしか見えません。
しかし、ポリニャック夫人は、革命の嵐までは‘おつきあい‘できなかったものの、死期だけは、かつての主に‘おつきあい‘をしています。ポリニャック夫人ポリニャック夫人




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