oskar.jpg バスティーユはオスカル達の活躍により、ついに陥落する。だが、オスカルもまた狙撃され、アンドレの後を追った・・・。ちなみにこのシーンは、テレビ版ではオスカルの生存してた頃のシーンが思い出されるかのようにいくつかでてきて、悲しいBGMと共に涙を誘います・・・。
 そして、残されたアントワネットにも運命は容赦なく押し寄せる。同年8月には「人権宣言」が採択されて革命は成就するが10月、ベルサイユ宮殿に飢えた市民がなだれ込み、国王一家はベルサイユから退去してパリに移された。
悪化する状況に、ポリニャック夫人及び多くの貴族が亡命するが、フェルゼンはフランスに戻り、国王一家の亡命を画策することに・・・。
1791年6月、計画は決行され国王一家はパリを脱出してオーストリアを目指すが、フェルゼンの奔走虚しくあと一歩の所で失敗し、一家はパリに連れ戻される・・・。パリまでの長い時間、アントワネットは市民に様々な罵声を浴びせられ、あまりにもの恐怖に、美しかったブロンドが白髪化することとなってしまう。国王一家のラストチャンス!ヴァレンヌ逃亡
 国王の逃亡未遂に激怒した国民に押され、フランスは翌1792年に共和政に移行し、国王の退位が決定する。更に、新たに召集された国民公会の採択で、国王の処刑が僅か1票差で可決してしまう。1793年1月、ルイ16世は王として最後の威厳を示し、処刑された・・・。
夫を殺され、王子までも取り上げられたアントワネットに、最後の試練が訪れる。→罪もない国王の子ども達
同年10月、屈辱的な裁判の後に、アントワネットも断頭台の露と消える。彼女は、最後の最後まで冷静に、王妃らしくふるまったという・・・。アントワネットの最後
 こうして、かつてベルサイユ宮殿に咲き乱れた薔薇たちは散った。ただひとり残されたフェルゼンに死が訪れたのは、1810年のことである。愛するアントワネットの命を奪った国民に対して憎しみを抱き、冷酷な権力者となり、彼を憎む民衆の手で虐殺されたのだ。→フェルゼン伯虐殺事件




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